筑前黒田武士の江戸日記

~隔月で第1土曜日に更新~

vol.50 金子堅太郎

 ブログをはじめて5度目の新年を迎えた。今年も三箇日を過ぎたら4日から仕事。短いパターンの正月休みは終わってしまったが、かつての黒田武士は、どのような正月を過ごしていたのだろうか。『金子堅太郎自叙伝』(日本大学精神文化研究所研究叢書)で、明治4年(1871)の金子堅太郎の元旦を見てみる。

 霞が関福岡藩邸で新年を迎えた金子は、「大小二本を腰に差し下駄にて」恵方参りに出かけたそうだ。午前に藩邸を出て、京橋・日本橋・両国を経て、亀戸天満宮を参詣し、茶屋で昼食後、隅田川を渡って猿若町で芝居見物(忠臣蔵の一演目で主演は市川団十郎)。吉原で松飾や羽根つきの様子を眺めつつ、上野を通って招魂社(後の靖国神社)にも立ち寄り、夕暮れ時に藩邸帰着。結構な距離を歩き回ったようだ。

 当時19歳。金子は下級藩士ながら成績優秀で東京留学の選抜生となり、前年暮に上京してきたところだったが、この年、藩による太政官札の偽造が露見し(太政官札贋造事件)、福岡藩は立花増美はじめ藩首脳が処刑され廃藩。選抜生は帰国を命じられるも、「一生涯福岡の村夫子にて終るかも計り難し」と感じた金子は、「断然藩庁の命令に従わずして滞京し、如何なる難苦を忍んでも勉強せんと決心」し、権中判事として司法省に出仕していた平賀義質の学僕となって、東京に居残った由。

 「福岡五拾二萬石の大藩の選抜生として東京に登り、各藩の学生と同塾し又は交際せしも、今は草履取りとなり玄関先に土下座する身となる」と塞ぎかけた金子だが、「粉骨砕身して英学を勉強し、後日必ずこの司法省の式台を靴のままにて昇降する身分にならん」と自らを鼓舞。後にハーバード大学で法学士の学位を修め、司法大臣にまで昇り詰めたその活躍は、今日でも知られるところである。今年もまた一つ歳を重ねるが、金子のような努力の精神は忘れずにいたいものだ。

 

f:id:kan-emon1575:20170107125402j:plain霞が関福岡藩邸跡は外務省。自序伝によると、金子が上京してきたときには、既に藩邸の表から半分は外務省が使っていたそうだ。石垣は当時のものだろうか。(本日撮影)

 

f:id:kan-emon1575:20170107124933j:plain福岡藩邸前の通りを進めば、突当りが江戸城桜田門(写真右端)。私の先祖の記録には「霞ヶ関御本屋表より四軒目住居」という記述もあり、このアングルに入る位置かもしれない。単身赴任の江戸屋敷での生活はどんなものだったのだろう。