筑前黒田武士の江戸日記

~隔月で第1土曜日に更新~

vol.78 麒麟がくる

 日曜の晩は「半沢直樹」に気を取られ、しばらく大河ドラマをサボっていたが、先日久しぶりに見てみたら、嬉しいことがあった。三好討伐後の評定の場、将軍足利義昭の前で、「池田城池田勝正と、伊丹城伊丹親興は、最後まで我らに刃向こうたのじゃ」と声を荒げる柴田勝家。池田・伊丹を許して松永久秀をなぜ許さぬと、織田サイドが一方に詰め寄ったシーンだが、槍玉に挙がった池田勝正は、我が先祖が仕えたと伝わる人物なのだ。知名度は高くないと思うので、名前が出てきただけで、やけに気分が盛り上がった。

 池田筑後守勝正。摂津池田城を本拠とした国人領主で、信長に従って伊丹親興らと摂津三守護となり、かの荒木村重中川清秀も家臣であったというから、それなりに存在感はあったのではなかろうか。元亀元年(1570)の朝倉攻めでは、金ヶ崎の戦いで退却した信長のしんがりを光秀・秀吉と共につとめたらしく、明日放送回の「逃げよ信長」での出番を期待してしまう。もっとも、我が家との関係を示すものは、家伝の系図に記された 「池田筑後守殿ニ仕ヘ家老相勤」という一文のみ。当時の我が家の動静を知る情報は今のところ皆無に近い。

 勝正は荒木村重と組んだ一族の池田知正により城を追われたが、その知正もまた村重に池田城を乗っ取られ、何と主従逆転。荒木姓に改めて村重の臣下となっている。系図には「池田家断絶後、浪人」とある。我が家は村重には従わなかったということなのだろうか。おかげで(?)、後の主君である黒田官兵衛有岡城幽閉に加担することもなく、天正3年(1575)に池田で生まれた次男坊が、関ヶ原の合戦後に黒田家に仕官。その家系が現代の我が家へと至る。「軍師官兵衛」がオーバーラップするような「麒麟がくる」。そのうち官兵衛の再登板もあろう。ドラマに触発され、戦国の世の我が家の歴史捜索にも本腰を入れてみようかと思い始めた、今日この頃である。

 

f:id:kan-emon1575:20130107154441j:plain池田城跡公園。建物は模擬櫓だが、城跡らしい雰囲気を演出している。(2013年撮影)

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