筑前黒田武士の江戸日記

~隔月で第1土曜日に更新~

vol.04 筑前のシンデレラボーイ

 秋月記』読了を機に、秋月藩の記録である「秋城御年譜」(『甘木市史資料』近世編第1集)を読んでみた。今まで見過ごしていた史料だが、本藩である福岡藩関係者の記述も散見され、自分の先祖の名前も出てきて俄然おもしろくなったが、なかでも目に留まったのは「御本家御家中 加藤市太夫様」が秋月藩主黒田長軌の末期養子になるくだりだ。「加藤様?」と、初めは誰だろうかと思った。 

 正徳5年(1715)、当時19歳の加藤市太夫は「御従弟違之御続」として白羽の矢を立てられ、秋月藩の中老をはじめ「三・四千石位之御供廻」を従えて江戸に向かっている。市太夫福岡藩家老野村家の子。母は三奈木黒田家、その母が秋月黒田家の出身というつながりで、三奈木黒田の本姓加藤を名乗っている。重臣の家とはいえ、藩士の次男坊から一城の主とは華麗な転身だ。江戸で新藩主となった市太夫あらため黒田長治(後に長貞)が帰国の後、実家の野村家を訪れたことも記録されていたが、立場の変わった家族の心境はどんなものだったのだろう。

 一方で「秋城御年譜」には、逆に秋月藩主の子息が福岡藩士の養子となっている事例もあった。文化13年(1816)の項に「梅太郎様御事、吉田斎之助養子にて福岡占部忠太夫え御養子」とある。占部家は家禄600石の福岡藩士。5万石の大名家との差は歴然としている。秋月藩家老の家を経由させてはいても、生まれ育ちは殿様の家。そんな若君を迎えたこちらの家族の想いにも興味がわく。

 身分社会とはいえ、家を継ぐ人を探すにしても、継ぐ家を探すにしても、ある程度柔軟な判断があったようで、意外感がある。ちなみに「梅太郎様」の養子入りと同年の項に「主殿様、福岡郡九左衛門(福岡藩中老)え御養子」との記述もあるが、翌年の項には「郡平馬(主殿様)異躰、同夕出奔」という展開に。大名諸侯ではなく家来筋の家。当の本人にしてみれば、なかなか柔軟には割り切れないということなのだろうか(?)。