筑前黒田武士の江戸日記

~隔月で第1土曜日に更新~

vol.12 一族郎党

 福岡藩士だった私の高祖父が「附属分限帳」と題した明治初年の古文書を残している。日経新聞に連載されていた浅田次郎さんの小説「黒書院の六兵衛」には、幕府の書院番の「附属」が登場するのだが、「つけたり」とフリガナが振ってあった。今まで何となく「ふぞく」かと思っていたが、そのように読むのだろうか。

 この分限帳には、馬乗5人、士分1人、卒3人の氏名と俸禄、簡単な略歴が記載され、表紙と巻末に高祖父の名がある。私の祖父は「一族郎党を引き連れて農村に移り住んだ」という明治維新後の我が家の歴史物語をよく聞かせてくれたが、分限帳には祖父が言っていた「郎党」の名も含まれていた。5騎の騎馬を従える高祖父の姿を思い浮べてみると、なにか高揚した気分にならずにはいられない。

 ただ、「附属」について私の理解が十分でない。与力のように、下位にある他の藩士が職務上の部下として配せられるイメージがあるのだが、『福岡県史』(福岡藩 通史編)によれば、福岡藩の馬乗は与力と違って直臣ではなく陪臣であって、あくまで藩士直属の家来らしい。分限帳に記載された馬乗の面々は、いずれも30~40石。馬乗にしては少禄とはいえ、我が家レベルの家禄には経済的負担が大きいようにも思うのだが、「附属」として記載された人が家政に関わっているような史料も残っており、やはり「郎党」というべき立場だったのだろうか。このあたり、もう少し知識を深めてみたいところである。

 幕末の当家の日誌には、ある日の登城について、「侍分両人、草履取、挟箱、合羽籠」と5人の供揃えが書き込まれていた。混み合った電車に揺られながらの私の出勤も、世が世ならと想像してみるのも面白い。日誌には分家の当主の名も度々登場している。遠い昔に枝分かれした家も、「一族」として親交が続いていたのだろう。「一族郎党」。私には何か頼もしく心強い響きに聞こえるようだ。