筑前黒田武士の江戸日記

~隔月で第1土曜日に更新~

vol.30 豊後富来城の戦い

 ちょうど1年前のブログで(「vol.18 黒田兵庫助」)、慶長5年(1600)の黒田如水による富来城攻めに触れたが、籠城兵の夜討ちを受けたとされる「黒田兵庫」について、「兵庫助の孫の政一?」と補足を入れていた。如水の実弟黒田兵庫助利高は、書籍等で「文禄5年(1596)に病死」とされているので、「兵庫」を名乗った孫かと考えたのである。しかし兵庫助利高は享年43。年齢的に孫は考えにくいかと気にはなってはいた。

 興味深い史料を見つけたのは、昨年発刊の『新修 福岡市史』資料編・近世2。18世紀の編纂とされる「増益黒田家臣伝」、黒田兵庫助利高の項を見ると、兵庫助の孫については、如水の孫である黒田忠之の治世で「十歳より内の幼年」とあり、この点、私の推測は誤りであったようだ。では夜討ちを受けたのは兵庫助利高かと思いきや、「此事(夜討ちの件)兵庫子孫に尋しに、諸抄は誤りなるべし」との記述。「兵庫は慶長五年豊後陣のころは病気保養として上方へありて」を理由としており、文禄5年死亡説も疑問となるような内容である。夜討ちを受けたのは誰なのか、そもそも夜討ちはあったのか、何ともモヤモヤ感が残る。

 『国東町史』所収の「豊城世譜 坤」(著者は杵築藩士)には、「藤井九左衛門を大将として、究竟の勇士三百人城戸を開き、先陣黒田兵庫の陣へ夜討、寄手厳しく防戦すといえども、不意の事ゆえ数多く討たれ」と具体的な記録があるが、黒田家の正史ともいうべき「黒田家譜」においても、「兵庫助殿陣所を夜討をかけ、味方を驚かし候事、憎き事にて」として、降伏した籠城兵を「一人も残らず、なで切りに仕り候はん」と母里太兵衛が激高したという記述が見られる。「誤りなるべし」とする子孫の見解の妥当性を確かめるには、まず兵庫助の没年を正確に裏付ける史料が必要かもしれない。

 ちなみに籠城兵の皆殺しを主張する母里太兵衛を笑って制したのは黒田如水だそうだ。如水いわく「敵は味方を苦しめ、味方は敵を悩ますは、いくさの定法なり」(「豊城世譜 坤」)。藤井九左衛門一光(城主垣見一直夫人の弟)、月成忠左衛門清次ら7名は如水の軍門に降って先鋒に加わり、福岡藩の成立後、藤井家は大組(600石)、月成家は中老(2千石)として幕末まで続いている。「敵を殺さず活かす」という如水を描いた昨年の大河ドラマ 「軍師官兵衛」で、いかにも使えそうなエピソードではあったのだが。

 

f:id:kan-emon1575:20090820120422j:plain手前の丘陵地が富来城跡。三浦梅園が城跡を訪ねた際に詠んだという歌碑が建っている。(2009年8月撮影) 

 

f:id:kan-emon1575:20090820121457j:plain富来城の戦いには、宮本武蔵が黒田勢として参戦していたとも言われる。2003年の大河ドラマ「武蔵 MUSASHI」では、そのシーンが登場して、当地でも話題になったようだ。