筑前黒田武士の江戸日記

~奇数月の第1土曜日に更新~

vol.51 これぞまことの黒田武士

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 私の祖父は晩年、家系について熱心に調べていたが、親戚筋と情報交換していた書簡などを整理していたところ、母里太兵衛友信の末裔との関係を示す記述を見つけた。養子だった高祖父の実家の姉が、当代母里太兵衛の後妻になっていたようである。我が家には母里太兵衛と高祖父が2人で並ぶ写真が残っており、親しい間柄なのだろうとは思っていたが、灯台もと暗し。身近なところで、新しい発見だった。ちなみに書簡には、太兵衛の前妻との間に生まれた長女が福岡県令渡辺清に嫁いでいる旨も書かれていたが、『旧華族家系大成』にある渡辺男爵家の系図とも符合した。

 黒田家中には母里姓の家が複数あるが、「酒は飲め飲め」でおなじみ母里太兵衛友信の直系は、「増益黒田家臣伝」(『新修福岡市史』所収)などを見ると、大組739石の毛利家であることが確認できる。太兵衛友信は後に毛利但馬と名乗り、以降は代々毛利姓で、明治になって母里姓に復したようだ。太兵衛友信は本姓曽我氏ながら、母方の母里姓に改めている。他の母里家も母方の一族という可能性もあるので、広義に考えれば、母里太兵衛ゆかりのご子孫は多数おられるのかもしれない。我が家との関係についても、祖父の書簡をもとに、史料などによる裏付けを進めてみたいところである。

 侍として最後の当主となった母里太兵衛友諒。私の高祖父は義弟にあたるわけだが、少し前の世代で、高祖父の実家に嫁いだ我が家の女性が、三男を母里家(当時毛利姓)の養子にしているご縁もあり、以前から近しい関係だったのではないかとも思う。『筑紫史談』(第31集)には、三条実美ら五卿の滞在する太宰府で、酒に酔った薩摩藩士が医者を斬殺する事件が起きた際、同地警衛の責任者だった太兵衛友諒は粛然と対応し、最後は酒で部下を慰労した旨が記録されていた(「五卿滞府中二三の事共」)。「黒田節」母里太兵衛の末裔らしいエピソードという気もする。

 太兵衛友諒の縁者という方(故人)が編集された「御家臣先祖由来記:母里光文書」を、福岡県立図書館の郷土資料室で読んだ。掲載されていた太兵衛友諒の写真は、我が家の写真と同じ人物。編者によれば、鉄砲大頭など武門の家にふさわしい番方の要職で活躍した太兵衛友諒も、武士の時代が終わると様々な困難に直面し、家屋敷は人手に渡り、母里家は福岡を離れてしまったのだそうだ。今も残る長屋門は、言わば、母里太兵衛友信の家筋が明治に至るまで確かに続いてきた証。扉の向こうには、黒田武士として誇りを持って過ごした日々がきっとあっただろう。 少しばかり縁のある者として、しばし、そんな感慨にふけった。

 

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 昨年の福岡旅行、平尾山荘(前々回のブログ)を後にして向かったのは、旧母里太兵衛邸長屋門。一昨年に改修工事が完了し、外観はだいぶ綺麗になっていた。太兵衛友信の屋敷門と紹介されることが多いが、子孫である大組毛利家のもの。最後の当主毛利太兵衛友諒は母里姓に復しているので、「母里太兵衛長屋門」で間違いではないが。

 

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 長屋門のあった毛利邸跡は、現在は野村證券天神支店。入口脇の「母里太兵衛屋敷跡」碑(写真左)には、母里太兵衛友信の下屋敷跡と説明されているが、史料根拠はないようだ(『古地図の中の福岡・博多』)。住んでいたのは母里太兵衛「友諒」である。

 

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天神から福岡城へ向かう途中、JT福岡支店がなくなっていて驚いたが、敷地内にあった飯田家の大銀杏は無事で一安心。再生治療中との説明があり、樹勢の回復に期待したい。