筑前黒田武士の江戸日記

~隔月で第1土曜日に更新~

vol.54 遠州の黒田屋敷

 先日、静岡県菊川市の旧家を訪ねた。屋敷のあるじは黒田氏。と言っても、旗本領の代官である。当地の豪農とあって、重厚な長屋門を構え、周囲に堀を巡らした立派なお屋敷だが、もとは清和源氏の流れをくむとされる武家の家筋。家紋は藤巴なので、筑前の黒田とも遠い親戚だったりするのだろうかと興味がわくが、確認できる史料が残っていなければ、もはや調べようもない。後世の人間が永遠に知り得ない歴史も、無数にあるだろうと、たまに思う。

 幕臣にも黒田姓の家がある。「黒田家譜」によれば、小普請組の黒田平次郎より系譜についての問合せと、同族として交誼を結びたいとの申入れを受けたことがあったそうだ。「寛政重修諸家譜」に見る250俵取りの黒田氏ではないかと思うが、やはり家紋は藤巴で「(黒田)高満が末葉」との由。ただ、福岡藩サイドは「以前より同苗たる申し伝えもなく、且つ此方の系図に所見なければ」として、お断りしている(「黒田新続家譜 巻之四十」)。史料があっても十分な客観性がなければ、確証を得にくいところもあろう。ちなみに『旧華族家系大成』には、「福岡黒田氏の分流」とする幕府御家人筋の黒田家が掲載されており、陸軍中将黒田久孝日清戦争の軍功で男爵となっている。

 少し前に飯尾甚太夫について取り上げたが(「vol.47 飯尾甚太夫」)、『福岡縣碑誌 筑前之部』という本に、「飯尾元忠碑」なるものを見つけた。昭和4年(1929)に発刊され、県内の古い石碑を紹介しているもので、碑文には「飯尾四郎右衛門元忠君は、豊後臼杵城主垣見和泉守の支族なり」とあり、黒田家に仕官後、帰農した経緯が続く。飯尾甚太夫の後裔だろうか。石碑も貴重な史料ではあるが、垣見和泉守は臼杵城主ではなく富来城主。撰者(亀井昭陽)の間違いなのか、伝承に誤りがあったのか。個々の家の歴史は情報が限られるだけに、史料に誤謬がないか、矛盾がないか、より検証が大事だ。我が家の歴史も、客観的な史料での裏付けなどによって、可能な限り正確に辿っていかねばと思うが、歴史好きにとっては楽しい作業でもある。

 

f:id:kan-emon1575:20170430152353j:plain黒田家代官屋敷。18世紀中頃の建築とされる長屋門は、2,000石の格式を有するという立派なもの。母屋や蔵とともに国の重要文化財に指定されている。隣接する資料館で職員の方が親切に説明してくれたが、地元の方と歴史談義に花を咲かせるのも旅の醍醐味だ。

(2017年4月訪問)