筑前黒田武士の江戸日記

~隔月で第1土曜日に更新~

vol.56 肥後と筑前

 細川家の幕末維新史料集として知られる『肥後藩国事史料』が、国立国会図書館のホームページ(「デジタルコレクション」)で閲覧できるようになっていた。昭和初年刊行の古い本なので、近所の大学図書館で読むときは扱いに気を遣ったものだが、自宅のパソコンで見ることが出来るとは有難い。10巻にも及ぶ膨大な史料群には、福岡藩に関係するものも多く、他藩からの視点による書きぶりも興味深い。

 慶応元年(1865)12月の項には、「薩筑肥米四藩士三條實美警衛に関する商議」と題した肥後藩士の藩庁宛報告がある。太宰府駐留の五藩代表による協議で、福岡藩からは番頭の藤井九左衛門をはじめ5名が出席し、五卿警備の協同運営について提案を行っている。七卿落ちの攘夷派公家衆の周旋をはかり、三条実美ら5名を自ら領内に招き入れるかたちとなった福岡藩であるが、五卿問題を一藩で抱え込むことは避けたい思惑もあったのだろう。「藤井云~」、「慎助(肥後藩士)答~」と議事録のような詳しい記述であるが、「何分このまま美濃守様(黒田長溥)え申上候言葉もこれなく、九左衛門はじめ甚だ行き当たり」、「御懇話之姿、外面にあらわれさへいたし候へば、筑前之面相立ち、御人数之多少などは決して論に及ばず」と、合意をお願いする様子は切実だ。

 この藤井九左衛門、『五卿滞在記録』(日本史籍協会叢書)所収の福岡藩史料にも登場している。五卿随従の脱藩浪士の不祥事に係る書面には、「九左衛門取り計らい不行届きの沙汰に相成り、甚だもって迷惑至極」、「九左衛門儀、誠に難渋の次第に押移り」など、現地責任者として困惑する様子が記される。「五人衆の御都合、各藩の情合等、微力の私躰にては何分相弁じ難く」として辞表を出し、藩庁より慰留された記録などもあるが、かの肥後藩史料と読み合わせてみると、現地の警備のみならず、外交交渉の重責をも背負った、一藩士のプレッシャーの大きさを、よりリアルに感じ取ることができる。

 九左衛門の長男である藤井甚太郎は、著書『明治維新史講話』で、「倒幕運動の三中心」として、第一に岩倉具視ら在京公家衆、第二に薩長同盟、そして第三に太宰府の五卿を挙げている。当時の太宰府は、いわば一大政治勢力の拠点であり、また様々なスタンスに立つ有力諸藩が藩士を派遣しており、幕末史においても重要な意味があったはずである。それを一藩史を超えた多角的な視点で理解するためにも、『肥後藩国事史料』のような他藩の史料集成は、貴重な存在と言えそうだ。