筑前黒田武士の江戸日記

~隔月で第1土曜日に更新~

vol.71 黒崎城

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【所在地】福岡県北九州市八幡西区屋敷1-9

【関連サイト】

https://www.city.kitakyushu.lg.jp/yahatanishi/file_0026.html

 

 夏休みの福岡旅行で、最初に訪れたのが黒崎城址。黒田家の筑前入封後、黒田二十四騎の一人である井上九郎右衛門之房が城代となった城だ。一国一城令により築城わずか10年で破却されているが、大河ドラマ「軍師官兵衛」で九郎右衛門がメインキャストの活躍を見せて注目が集まったか、一昨年、城址は福岡県の史跡に指定。福岡城址でも行われたような大型パネルによる天守閣演出といったイベントもあったらしく、地元では存在感を見せているようだ。

 東京では見られないトンボの群れに物珍しさを感じつつ、黒崎駅から歩いて城址へ。城山緑地公園となっている小高い丘陵地であり、セミの大合唱の中、汗だくになりながら山頂部に到着。当時のものと思しき石垣や、黒田長成侯爵の書による「黒崎城阯」の碑(上部写真)、展望台からの眺望に、登頂の労が報われたような感慨も湧く。周囲には五卿上陸地、秋月藩蔵屋敷跡、御茶屋跡などもあって、観光案内図でも示されており、歴史のある町として盛り上げようとする雰囲気も感じた。

 2万石もの高禄を食んだ井上一族は、黒田騒動後のいわゆる「井上崩れ」で改易となったが、「綱領」の嘉永2年(1849)の項には、久留米藩家老有馬播磨家の食客だった井上九郎左衛門之敏が、「井上周防(九郎右衛門之房)家筋之儀ニ付」として、500俵(後に600石)で大組として福岡藩に迎られたと記録されている。『久留米市史』第9巻の巻末にある有馬播磨家の家系図を見ると、播磨より6代前の有馬内蔵助重昌(家老4千石)について、「後妻は福岡藩元家老井上氏女」とあった。九郎右衛門ゆかりの人物が厄介になっていた事情はそこにありそうだが、「井上崩れ」から二百年もの歳月を経ての帰参、御家再興とは興味深い。

 少し前にもネットで情報検索をしていたら、やはり興味深い発見があった。明治初年の福岡藩大組の若者たちが写った古写真。笑顔を見せたりポーズをとったり、微笑ましさも感じるが、そのなかにいる一人の名が目を引いた。井上九郎。この若者こそ、再興された井上家を継いだ最後のサムライ。明治初年の分限帳にもその名は確認できる。写真は大組(1,380石)伊丹家伝来の史料で、寄贈先の福岡市総合図書館がホームページで公開しているが(下記リンク)、かの井上九郎右衛門の後裔も注目に値する一枚ではあるまいか。

 

【参考】 伊丹資料の古写真 (福岡市総合図書館HP)

http://toshokan.city.fukuoka.lg.jp/documents/detail/3

笑顔の伊丹親賢が肩に手をかけているのが井上九郎。ちなみに親賢の後ろに立つ久野一枝は、佐幕派として切腹した久野将監の跡を継いだ人物だ。伊丹家の系図(福岡県立図書館にコピー本あり)によれば、将監は伊丹家から大組久野家に養子入りしている。

 

f:id:kan-emon1575:20190729091846j:plain黒崎城址遠景(中央の丘陵地)。近くの立体駐車場屋上から撮影。

 

f:id:kan-emon1575:20190729084607j:plain福岡県指定史跡となった記念に建てられた城址碑。後ろには遺構らしき石垣。

 

f:id:kan-emon1575:20190729084841j:plain城址の説明板に掲載の絵図。後年、秋月藩士が調査し作成したもの。

 

f:id:kan-emon1575:20190729085442j:plain城址展望台から黒崎駅方面を望む。