筑前黒田武士の江戸日記

~隔月で第1土曜日に更新~

vol.72 筑前維新史紀行

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 4年前のブログ(「vol.37 藩物語」)で、立花増熊の古写真が別人と取り違えられてはいないかという疑問を呈したが、興味を持たれブログにコメントを寄せていただいた方が、この件に関して『福岡地方史研究』第57号で論文を発表され、一部送ってくださった。「間違えられた家老の写真と福岡藩の秘密神事・鎮火祭火魔封火打釘」と題した大変興味深い内容で、古写真について緻密な分析をされ、私の漠然とした見解を論理的に裏付けていただいている。たまたまお持ちだった資料がヒントとして結びついたとのことで、私のささやかな情報発信も、福岡の地方史に少しは一石を投じることができただろうかと、感慨深くもある。

 さて、いくつかの事情が重なり、別人の写真が本人とされてきたと思われる大音青山。夏休みの福岡旅行で、彼ゆかりの地を訪ねた。宮若市大音青山屋敷跡。現地の説明板によれば、青山は明治維新後にこの地で暮らし、明治7年(1874)には屋敷内の演武場を校舎にして、山口小学校を開校したのだそうだ。藩を勤王へ統一した人物とも紹介されているが、勤王・佐幕の対立が激化した慶応元年(1865)、当時、大音因幡と称していた彼は、病気を理由に家老を辞職(この時に青山と号した)。その後、勤王派の大粛清(乙丑の獄)が展開されるが、青山は具体的な処分の対象には含まれなかったようだ。

 一方、青山の養子で、在京重役だった大音兵部(左京)は佐幕派とされる。江島茂逸による「黒田長溥公年譜」の慶応元年の項には、「大音兵部、京師より帰着し、直に出館して公の坐室に入り、何か進言せしことあり。蓋し兵部は二條、一橋、其他幕吏か内諭を携へ帰りて、痛く勤王党か挙動に係り、讒毀を容れしと云ふ」とある。はたして、勤王派処分は本格化するに至るが、兵部の「進言」より前に、青山は職を辞している。相反する党派にあった義理の父子の間に、どんなやりとりがあったのか、あるいはどんなドラマがあったのか、興味がわく。

 「大音家系」(※)には、慶応4年(1868)に家督を継いだ大音彦左衛門重善(2代前が青山)について、明治2年(1869)に「鞍手郡山口村へ在住引越、同村野中と申す所へ居宅を建」との記載がある。時勢が変わって佐幕派が粛清され、実兄の大音兵部が押隠居となった翌月、兵部の養子として相続を許され中老入りした彦左衛門であるが、早々に身を引いたようだ。大音家三代が揃って、現在の宮若市の屋敷跡地に移り住んだのだろう。勤王派の青山と、佐幕派の兵部。異なる立場ではあったが、いずれも時代の波に翻弄されて生きた御両人だったと言えるかもしれない。激動の維新史をともに振り返りながら、明治の世を、この地で過ごしたのであろうか。今に残る大音屋敷の石垣を前に、様々な想像が頭に浮かんだ。

 

※「大音家系」:福岡県立図書館所蔵史料で、郷土資料室の書架にコピー冊子がある。大音兵部の諱は、『新訂黒田家譜』に「厚運」とあるが、この史料には「厚連」とあって「ツレ」とルビが振られており、気になるところだ。ちなみに兵部と彦左衛門の実父は養子で大音家に入った人だが、当時は嫡子の青山が幼少だったため、中継ぎで相続したのではないかと推測する。

 

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大音青山屋敷跡に残る石垣。現在は私有地となっており、下の古写真に見る石段は、車が通れるようアスファルトで舗装されている。

 

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現地の説明板(最上部写真)に見る大音屋敷の古写真。『見聞略記』には「御家老・御中老・大組等の人々、郡々に御出張、家内中引越御転宅」(明治元年秋)という記述があるが、「黒田播磨殿・大音殿は福岡御本丸番に残され候よし」(明治2年)とも。

 

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同じ説明板で「大音青山」と紹介されている立花増熊の写真。誤りであることは、ほぼ間違いないと思うが、訂正されることになるだろうか。

 

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この後、さらに山奥へと車を走らせ、犬鳴御別館跡も訪ねてみた。勤王派が主導した慶応元年(1865)の御別館建設は、有事に藩主を避難させる目的としながら、黒田長溥の幽閉を画策したものとする疑念を招き、乙丑の獄の一因になったとも言われる。

 

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城郭を思わせる当時の石垣は風格があるが、まるで人気のない山奥の静寂の中で、遠い昔の面影を見せる遺構は、何か不思議な雰囲気も漂う。左手には乙丑の獄で切腹した加藤司書の忠魂碑。大手口(写真)の先は、すっかり杉林で覆われ、時の移ろいを感じさせた。

 

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航空写真でもドローン撮影でもなく、犬鳴大橋から真下を見下ろした写真。橋の途中で歩くのを断念したほど、足がすくむ高さ。写真と逆方向が犬鳴ダムで、御別館はさらにその先。こんなにも険しい山奥だ。