筑前黒田武士の江戸日記

~隔月で第1土曜日に更新~

vol.76 黒田小学校

 年明けの福岡旅行では、県立図書館の郷土資料室にも立ち寄り、収穫もあった。大組の伊丹家の系図に目を通していたところ、佐幕派の重役だった久野一致(一角、将監)の名を見つけた。彼は伊丹家に生まれ、養子である義兄の伊丹景陽(下記ご参照)が家を継いでいるため、同じく大組の久野家へ養子に出たようだ。この出自について言及している書籍を私は見たことがない。藩の要人といえども、佐幕派の人物の場合、人となりを知る情報は随分少ないように思う。

 系図にいわく、「書・文学、人ヨリ勝ル」。そんな彼の最期については、「国主黒田長溥ノ為メ身代、首ハ大坂ヨリ持チ帰ル」とあった。『見聞略記』によれば、慶応4年(1868)に勤王派弾圧の廉で切腹後、その首は倒幕勢力に許しを請う免罪符のごとく、上方に届けられていたようだ。辞世の句は、「数ならぬ 我が身の命 この国の 代わりとなりて 果てる嬉しさ」。彼なりの武士道を感じさせる一句である。

 福岡藩士長浜家について書かれた私家本も、郷土資料室での新発見だった。長浜家の先祖九郎右衛門は黒田忠之の逝去後に殉死した人で、その跡を継いだ長浜四郎右衛門は知行1,200石となっている。この長浜家と我が家は藩政期に親戚の間柄であったので、「筑前長濱一族」というサブタイトルに興味を惹かれたのだが、我が家との関係についての記述を見つけ、嬉しくなった。ご子孫である著者は、ご母堂が長浜家の方である由。機会があれば、旧交を温めてみたいものだ。

 さて、旅行から戻って間もなくのコロナ禍。以来、遠出ができない時期が続いたが、そんな中でも身近なところで「黒田武士」目線での発見があった。東京都文京区小日向の黒田小学校跡。近くに住んでいながら今まで気付かなかったのだが、当地に別邸を構えていた黒田長知の請願・資金提供によって設立された小学校があったのだそうだ。空襲で被災して廃校となった跡地には、卒業生有志による石碑が建っていた。自粛漬けの日々に、気持ちの和む発見でもあった。

 

 【参考】 伊丹景陽の古写真 (福岡市総合図書館HP)

https://toshokan.city.fukuoka.lg.jp/documents/detail/6

景陽は納戸頭など藩の要職を務めた人物。以前のブログ(vol.71)で古写真を紹介した伊丹親賢は、系図によると景陽の子。また同じ写真に写る久野一枝は、切腹した久野一致の子で、妹が伊丹親賢の妻となっている。

 

f:id:kan-emon1575:20200702154247j:plain黒田小学校跡

 

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