筑前黒田武士の江戸日記

~隔月で第1土曜日に更新~

vol.77 杖立騒動

 海音寺潮五郎さんの小説『豪傑組』を読んでいたら、重要な場面で思いもかけず福岡藩士が登場。肥後杖立の温泉宿での柳川藩士と佐賀藩士のトラブル。「さわぎに、同宿していた筑前黒田家の大目付役をつとめている梶原喜太夫という人物が聞きかねて出て来て仲裁に入った」。聞き入れない佐賀藩士に、「所の領主たる細川家の了解を得た上で、堂々たる勝負をなさるべきであると存ずる」と喜太夫。「五十四万石(ママ)の大藩の大目付をつとめるほどの人物だけあって、堂々たる議論だ」と、なかなか立派な御仁に描かれている。

 柳川藩士は足達八郎。老母の湯治で訪れた宿で、同宿の佐賀藩士に嫌がらせを受け、遂に耐えかねて斬り合い寸前の事態となった次第だ。八郎を取り囲む佐賀藩士は6人。八郎を気遣った喜太夫のはからいで、熊本藩検視役立会いのもとでの公式の決闘となった。八郎は居合の達人。6人と順番に差しの勝負に臨んで全員を斬り倒し、さらに応援に来ていた佐賀藩士たちが激高して襲いかかってきたのを返り討ちにして、自ら恥辱を晴らしたという。時代劇のような凄まじさだが、当時「杖立騒動」と呼ばれて九州一円の高い評判になった実話だというから驚きだ。

 とすると梶原喜太夫も実在の人物かと、福岡藩の分限帳をめくってみたら、決闘が行われた享和元年(1801)に近い安永期の分限帳にその名があった。大組665石。後年に家老次席も輩出している家で、過去のブログで取り上げた伊丹家資料の写真(福岡市総合図書館 古文書資料紹介vol.3)には、明治初年の当主梶原平十郎の姿もある。杖立騒動については、昭和初頭に映画にもなっているようだが(日活「杖立騒動」)、大事な役どころを担った梶原喜太夫の福岡での知名度は、高くはないだろう。小説は意外な情報源になる。私の知らない黒田武士のドラマは、まだまだありそうだ。