筑前黒田武士の江戸日記

~隔月で第1土曜日に更新~

vol.83 侯爵邸

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 緊急事態宣言継続も博物館の制限が緩和された6月、営業再開となった江戸東京たてもの園に行ってきた。予約制で入園者数を絞っており、広い園内で密になることはなく、ゆったりとタイムワープしたような散策を楽しめた。見どころは満載だが、見入ったものの一つが伊達侯爵邸表門。大正期に建てられた宇和島伊達家の門構えだ。

 番所が据えられた立派な御門は、かつての大名の江戸屋敷を彷彿とさせる。宇和島藩仙台藩の分家で10万石程度ながら、幕末の藩主伊達宗城四賢侯と謳われるほど歴史の表舞台で活躍した殿様だ。大河ドラマ「青天を衝け」にも登場している。維新後の宇和島伊達家の爵位は、宗家である仙台伊達家の伯爵より格上の侯爵。侯爵のお屋敷はかくなるものかと、御門を眺めながら、思わず赤坂の黒田侯爵邸を想像した。

 その後、図書館で『華族画報』(復刻版)なる本を見つけた。大正2年(1913)刊行の古い本で、華族の経歴が記載され、家族や自宅の写真なども添えられている。黒田家も紹介されており、はじめて黒田侯爵邸の写真を目にした。両番所付きの表門、門から随分距離がありそうな御殿風の主屋。それらの写真には「敷地数万坪を有し、屋舎は日本風の大厦にして結構壮大」とのキャプション。伊達侯爵邸に見劣りすることもなかろう。思わぬ発見に、何か感慨深いものがあった。

 余談ながら、伊達宗城の日記には最後の福岡藩黒田長知についての記述があり、これがなかなか手厳しい。「下野守(長知)が不届なる申し様、実に言語に絶す」、「天朝幕府を欺き、親友をだまし、第一養父(黒田長溥)の所存も不承」。元治元年(1864)、養父である藩主長溥の名代として、有力諸侯の集まる京にあった長知(当時は慶賛)。20代半ばの若君の言動が不興を買ったようだ(ちなみに伊達宗城は40代半ば)。詳細は『伊達宗城在京日記』をご覧いただきたいが、維新後はともに侯爵となった両家、わだかまりは時代が解決してくれたであろうか。

 

f:id:kan-emon1575:20210606140209j:plain東京白金にあった伊達侯爵家の屋敷門。『華族画報』にある写真では、この門ではなかったので、建てられたのは掲載以降なのかもしれない。(以上、2021年6月撮影)

 

f:id:kan-emon1575:20170401160404j:plain以前のブログ(vol.53)でも紹介した黒田侯爵家の屋敷門。元は秋月藩邸の門。『華族画報』に掲載の写真と同じものだろか。(2017年4月撮影)