今年は『天狗争乱』を読了。天狗党の乱の顛末を描いた吉村昭さんの長編小説。改めて激動の幕末に関心が向き、その象徴の一つとも言える京都に行ってみることにした。母方の祖父母の墓のある寺に立ち寄った後、二条城、京都御所、摂家の二条家屋敷跡、大徳寺龍光院、福岡藩中立売屋敷跡など、黒田家とも関係のある辺りをいろいろ散策。ここまでじっくり歩き回ったのは初めてかもしれない。年の瀬も近づいた都の雅な雰囲気に癒されつつ、我が先祖も動乱の京都に居合わせた時代に思いを馳せて気分も昂り、なかなか充実した旅であった。
元治元年(1864)の禁門の変で福岡藩が警衛の任にあった御所の中立売御門も久々に訪ねてみた。藤井甚太郎の論考によれば(「蛤御門の戦の際に於ける福岡藩の態度」/『史談会速記録』第165輯)、福岡藩兵は三手に分かれ、中立売御門に用人(大音兵部か)などの一隊、縁家筋の二条家に納戸頭(久野一角か)などの一隊、福岡藩中立売屋敷には家老(小川讃岐か)などの一隊が配され、私の高祖父は二条家の警護に加わっていたようだが、実際に戦闘が始まってから、どのような動きがあったのかがよく分からない。中立売御門に国司信濃らが攻め込んできた際、高祖父も応戦に駆け付けたのか、それとも二条家に残り戦闘には加わっていないのか。現在は平穏そのものの御門を前に当時の歴史的場面を想像しながら、少しもどかしさを感じるところでもある。
『従二位黒田長溥公伝』には、「中立売御門前には、小川讃岐は総勢を率い、藩邸より整列して出張しぬ」とあるが、「此時は既に長藩兵は烏丸家前に於いて薩藩勢と激戦し、敗北して引退けたる後にてありし」、「久野一角は一隊を率い、二条殿守備として出張せしも、以後は当手に加わり、警備して乱後の手当に奔走す」ともある。長州勢に突破されてしまったとはいえ、全兵力を投じて蛤御門のように徹底抗戦する雰囲気でもなかったのだろうか。この後、もう一つの大事件であった天狗党の乱では、在京の福岡藩兵から小河伝右衛門率いる一隊が一橋慶喜を総督とする追討軍に加わって出陣。まさに『天狗争乱』の終盤の場面だ。この時期の福岡藩の動向には興味が尽きず、もっと深掘りしてみたいという思いが再燃した。
さて、今年は秋月で藩校サミット朝倉大会が開催。黒田武士の出番となったメモリアルイベントに是非参加してみたかったのだが、残念ながら行けず仕舞い。春先にお披露目となっていた福岡城の潮見櫓もまだ見れず仕舞い。福岡市博物館も来秋あたりにはリニューアル工事で長期休館に入るらしいから、来年は福岡に行きたいと思っている。禁門の変についても、福岡藩関係のところで本腰入れた史料調査をしてみたいところだ。
京都御苑の中立売御門。守衛の福岡藩兵は長州勢の御所侵入を許してしまったというが、蛤御門に残るような弾痕は見られず、やはり長州と争う意思がなかったのだろうか。
中立売御門の先には宜秋門(写真右手)。この先が帝のお住まい。中立売御門については書き始めた頃のブログでも取り上げているが(vol.5)、13年ぶりの再訪となった。
中立売休憩所にあった模型。激戦の地として歴史に名を残す蛤御門(右下)から隣にある中立売御門(左下)までの距離はわずかなもの。
二条家屋敷跡。現在は同志社女子大学で、碑のそばには当時の礎石が残る。私の高祖父も警護にあたっており、褒賞として長柄槍穂15本を頂戴したとか。黒田斉清の正室は二条治孝の娘で、両家は親戚筋の関係。
大徳寺龍光院の表門。黒田長政が如水の菩提を弔うために建立され、今も黒田家の霊屋(重要文化財)が残る。
龍光院の裏門付近。在京時の黒田慶賛が本陣として滞在したこともあったようだ。
表門が閉まっていたので裏門に回ってみると「拝観しておりません」の掲示。残念ながら中には入れず、御霊屋は拝見できず。