筑前黒田武士の江戸日記

~隔月で第1土曜日に更新~

vol.99 黒田増熊

 

 立花弾正、黒田山城、立花静軒、立花左衛門、黒田近江、黒田醒翁。これらはすべて同一人物。多難な幕末政局で藩外交に重きをなした御家老だ。たびたび姓も名も変わるので表記が悩ましいが、ここでは黒田増熊で統一する。増熊は諱、黒田は賜姓(本姓は立花)で明治以降は公称として定着。妻女は秋月藩黒田長韶の姫君で、黒田家とは姻戚の関係でもある。上の写真は宮若市大音青山屋敷跡に建つ説明板に掲載の1枚で、同じく家老だった「大音青山」と書かれているが、実際には黒田増熊の写真であろうことは以前にもブログで述べており、ご参照いただきたい(「vol.72 筑前維新史紀行」)。

 黒田増熊(1807~1889)について、幕末の史料には「風評一向不宜、実姦物に相違無之候」(『鳥取池田家文書一』P50-52)など手厳しい評価もあり、島津久光に至っては「実に奸佞の者と相見得候」、「驕傲無礼、斬首してもよろしき人物」などと日記に書き留めているほど(『鹿児島県史料』玉里島津家史料ニ P729,749)。その一方で、「四人の名家老」と題した史料(『福岡市史』資料編・近現代1 P38)には、「当時日本名誉ノ家老」として薩摩の小松帯刀らと並び「筑前立花山城」(増熊)の名がある。いずれにしても、様々な主義主張が交錯した激動の時代に、臆することなく強烈な存在感を発揮した人物と言えそうだ。

 しかし、一般的な人名辞典で彼を取り上げているものは、平凡社の『日本人名大辞典』くらい。これも福岡出身の藤井甚太郎(増熊の長男である増美の甥)が編纂顧問だったことも関係しているだろうか。その内容は、国立公文書館所蔵の「大正十三年皇太子御成婚贈位内申事績書」の説明とほぼ同文で、いずれも「(維新後も)旧藩士族の首脳」であったと結んでいる。贈位内申には「維新の際、克く藩主を輔け、諸藩の名士と謀り切に大義名分を説き、四方に周旋して勤王の偉業を翼賛せり、仍て之に対し、正五位を贈られ然るべきか」との推薦文もある。明治維新の表舞台から姿を消した福岡藩にあって、黒田増熊もまた歴史上の知名度を下げたことは必然だったのかもしれない。

 福岡県立図書館には黒田増熊の日記が残る(「黒田(立花・薦野・丹治)家文書」)。個人的な日記であり、彼の思いも随所に綴られていて興味深い内容だ。在京の折、国許で病床に臥す長男の嫁(藤井九左衛門の娘)を気遣う様子など、人間味も感じる。崩し字に難渋して、まだ6冊中1冊しか読破できていないが、これを読み切らないことには、黒田増熊を語るのもまだ早かろう。太政官札贋造事件で責任を負った息子の立花増美が刑死(享年36)、福岡の変で反乱に加わった孫の黒田平六が戦死(享年18)。明治の新しい世に彼は何を思ったか。残念ながら日記は文久4年(1864)までで、その胸中を知る由もないが、まずは現存の日記を地道に読み進めて、彼の実像に今一歩近づいてみたい。

 

 

福岡城の上之橋御門跡。この奥にあったのが増熊の屋敷。彼が残した自身の履歴(福岡県立図書館所蔵)によれば、郡家との屋敷替で嘉永7年(1854)に天神町から引っ越してきた由。ただし、それ以前にも城内の同じ屋敷に住んでいた時期があったようだ。

 

福岡城むかし探訪館にある福岡城と城下町の精巧なジオラマ。中央が城内三ノ丸の増熊邸。さすがは4千石の大身家老。建物や間取りは旧状通りか分からないが、五十間四方という屋敷の広大さが見て取れる。