筑前黒田武士の江戸日記

~隔月で第1土曜日に更新~

vol.98 津

 

 このブログで初めての1字タイトル。藤堂家27万石の城下町である津に初めて行ってみた。津藩は我が藩の黒田長知公のご実家である。最後の藩主藤堂高潔黒田長知の2歳上の兄。お二人とも能好きで、維新後はともに能楽師の活躍を積極的に支援。高潔は自身も喜多流免許皆伝の腕前で、黒田侯爵邸にも度々訪ねてきたそうだ。

 津は福岡同様に県庁のある市街地となっていて城下町の風情は乏しく、津城の堀と石垣が残る程度ではあるが、少し足を延ばせば雄藩としての見どころは多い。城代が置かれた伊賀上野城は日本屈指の高石垣が圧巻。忍者屋敷が有名だが、藩校崇広堂武家屋敷なども現存。一門の名張藤堂家(1万5千石)が暮らした名張には、屋敷の奥向の一部が残り(名張藤堂家邸)、三奈木黒田家のような大身家臣の暮らしぶりを窺うことができた。

 以前のブログで福岡藩の無足組について取り上げたことがあったが(vol.88)、津藩には無足人制度が存在する。津藩の無足人は普段は農業に従事し、有事には無給ながら軍役も負う郷士のような存在だが、あくまで身分は五人組に属する百姓の立場。かの松尾芭蕉も伊賀在住の無足人の出身と言われるが、歴とした士分だった福岡藩の無足組とは随分とイメージが違う。同じ呼称でも藩により使い方はそれぞれ。興味深いところだ。

 

 

城址。冒頭の三層の櫓(模擬建築)は堀もない裏通りに面した立地で聊か目立たない。福岡城の整備計画も何を復元するかは、景観も重要な検討材料になるだろう。

 

伊賀上野城。この天守も模擬建築だが見栄えはよい。福岡に集住した黒田家臣団と違い、藤堂家臣団は藩庁のある津とは別に、伊賀にも城代はじめ一部藩士が配置された。

 

伊賀在住の藩士だった成瀬家の長屋門。1,500石の大身とあって重厚感がある。福岡にももう少し武家屋敷が残っていてほしかったが。

 

名張藤堂邸。かつては役所なども備えた陣屋形式で、一門家臣ながら支藩のような貫禄を感じるが、当主藤堂長熙の時代、諸侯としての独立を企てて藩庁からの出兵騒ぎを招いた「享保騒動」なる事件もあったそうだ。

 

名張藤堂邸の奥向。一門と言っても家祖の藤堂高吉は、藤堂家の主君たる豊臣一族からの養子。もともとは丹羽家から秀吉実弟羽柴秀長の養子となるも、事情が変わって跡継ぎになれず、藤堂高虎の養子に回され、高虎に実子ができると家臣団に編入されてしまった悲運の家筋だ。