筑前黒田武士の江戸日記

~隔月で第1土曜日に更新~

vol.95 金子伯爵の葉山別邸

【所在地】神奈川県三浦郡葉山町一色2311
【関連サイト】
 https://bunka.nii.ac.jp/heritages/detail/588620
 https://bunka.nii.ac.jp/heritages/detail/541161
 https://zushi-hayama.keizai.biz/headline/359/

 

 帰省の折り、金子堅太郎の別邸を訪ねてみた。実家近くなのに今までその存在を知らずにいたが、一昨年、国の登録有形文化財に指定されていた。葉山御用邸近くの一色海岸に面した小高い山の斜面に、金子が晩年を過ごした恩賜松荘と、後妻のために建てたという米寿荘が現存する。いずれも現在は別の個人の所有となっており、公開されていないが、福岡藩の下級武士から一国の大臣にまで昇りつめた立志伝中の人物のお屋敷だけあって、外観を見るだけでも歴史的な重みがあるように感じた。

 金子堅太郎については過去のブログ(vol.50)でも取り上げたことがあったが、自伝である『金子堅太郎自叙伝』は、なかなか読みごたえがある。藩政期の少年時代の記述などは往時の黒田武士の日常を彷彿とさせるが、とりわけ印象深いのは次にあげる一節。明治2年(1869)、当時16歳の金子は修猷館の選抜生50人に選ばれている。金子いわく、「藩庁の方針は家老以下士分の子弟を選抜し其階級の上下に拘らず凡て之を平等となし、文を講じ武を練らしむるにありたり。而して五十人分の飯は炊番と号し二人を一組となし、一日三度の炊事を司らしめ洗米より飯焚に至る迄悉く二人にて負担するを例とす」。そして以下の記述が続く。

 余は同居の毛利萬太郎と一組となりたれば、翌朝の飯米を会計掛より受取りたる時、萬太郎余に語りて云ふには「私は飯を焚く事も米を磨ぐ事も知らざるなりに依り、城内の宅に帰り家来を呼び来りて炊事をなさしめん」と、余は其の窮状を察し、家老の子息に飯を焚かしむることは無理なる事なれども、今回の選抜入塾は家老等上流の子弟にも下情に通せしめんとの藩庁の旨趣なれば、若し家来に炊事を託する君の振舞、藩庁に達しなば必ず退塾の厳命あらん、余は幼少の時より炊事は万事心得居れば、君は余が命ずるままになせば宜し、釣瓶にて水汲む事位は出来んと慰め、翌朝に至り井戸端にて米を磨ぎ、萬太郎に水を汲ませ兎角三度の炊事を了り、夜に入りて萬太郎は頻りに余が厚意を謝したることありたり。

 毛利萬太郎は家老毛利内記の嗣子。身分差に臆することなく、年下の萬太郎をリードする金子の頼もしさもさることながら、家老と下士をペアにして共同生活をさせる藩の方針も意気に感じる。福岡市総合図書館の『古文書資料目録3』にある毛利家文書の解説によれば、萬太郎は慶応3年(1867)に12歳にして家督を相続。名門家老家を継いだばかりの少年の気持ちを思えば、当主として彼なりの逡巡があったかもしれないが、貴重な経験になったはずだ。金子堅太郎の栄達は自身の努力と苦労の賜物と言えるが、時代の変化が彼を後押しした面も大きいのではないかと思う。現代を生きる自分も、変化はチャンスと捉える進取の気性を持ち続けたいものである。

 

 

海岸沿いの道路から続く石段の先に金子別邸。石段は私有地で入れないが、かつては入口に茅葺の門を構えていたそうだ。ちなみに手前左手には団琢磨の別荘があった。さすがは古くからの親友。栗野慎一郎の別荘跡地も近い。

 

裏道の緩やかな坂の上に恩賜松荘(正面)。屋根の先にわずかに海が見える。邸内からの眺望はさぞや素晴らしいことだろう。右手は米寿荘の玄関前。いずれも現在は個人のお宅であり、覗き込んで写真を撮ることは憚られたが、趣のある建物だった。

 

金子別邸の正面に広がる一色海岸。沖合にはヨット。金子堅太郎の息子がヨットを建造し葉山で楽しんだのが、日本人の最初のヨットだそうで、葉山港は日本ヨット発祥の地なのだとか。