筑前黒田武士の江戸日記

~隔月で第1土曜日に更新~

vol.96 川路左衛門尉

 9月に佐渡に行ってきた。かつて佐渡奉行の統治のもと、金銀の採掘で栄えたところである。往時さながらに復元された佐渡奉行所を見学。私の祖父の母方は佐渡の出で、武家ではないが苗字帯刀を許され奉行所にも出入りしていたというから関心は尚更だが、建物の規模も大きくなかなか見応えがあった。一家が住んでいたあたりにちょうど宿があり、そこで一泊。佐渡には初めて来たが、不思議と郷愁のようなものを感じた。

 歴代の佐渡奉行で有名人と言えば、川路聖謨が挙げられるだろう。日田代官所の小役人の家に生まれ、御家人の養家を継いでから持ち前の才覚で異例の出世を続け、佐渡奉行勘定奉行外国奉行など幕府の要路で活躍したが、慶応4年(1868)、新政府軍による江戸城総攻撃の予定日に屋敷でピストル自殺。サラリーマン的な成功を収めながら衝撃的な最期を遂げたその生涯は、吉村昭さんの小説にもなるくらい(『落日の宴』)、幕末史にインパクトを残していると言えよう。

 佐渡旅行を機に読み返してみたのが、川路の日記である『長崎日記・下田日記』。嘉永6年(1853)、彼はロシア使節プチャーチンとの交渉のため長崎に赴く際、筑前領内で黒田長溥と面会している。日記によれば、長溥からの誘いで木屋瀬の別邸に招かれ、上座で対面する待遇。「すぐに退去いたし候つもりが」、佐渡奉行だった彼に長溥は金山について質問(当時領内で金の採掘を開始)。「帰らんとするに」、今度は人払いをして異国事情を質問。「ようやくの事にて暇乞いいたし候処」、最後は鷹狩りの成果を披露され雁と鴨のお土産。長溥の好奇心の強さも窺えて、面白いエピソードである。

 当時は勘定奉行でエリート官僚ではあるが、家禄は500石。もともとは下級官吏だ。「(黒田家側に)大国へ対し不敬これ無き様いたしたき旨申遣わし候」とあるが、やはり緊張はあったろうか。しかし「大家国持と初めて対話」とはいえ、「左衛門尉至って静にて、取廻し美事也」と自画自賛。「惜しむべくは、おさと(妻)に見させ申さず候」などと茶目っ気も交え、何か人間味も感じる。ロシアとの交渉も平和裏に終えているが、川路の人柄にロシア側も好印象を持ったという。帰路も山家宿で長溥に招かれ刀剣の話で盛り上がったようだが、魅力のある人物だったのだろう。佐渡旅行を通してまた一段と親しみがわいた次第だ。

 

 

佐渡奉行所。川路は佐渡でも「島根のすさみ」という日記を書き残している。「諸侯にもかわらざる供立にて」、「実に有難き事」。書き出しにある佐渡への出立の様子には、90俵3人扶持から大行列を従えて駕籠に乗る身分にまでなった彼の感慨が見て取れる。