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筑前黒田武士の江戸日記

~毎月第1土曜日更新~

vol.10 黒田光之の側近たち

 『元禄世間咄風聞集』(岩波文庫)を読んでいたら、「松平肥前守殿御家来知行高」と題する記録が出てきた。松平肥前守は黒田綱政であり、黒田三左衛門以下重臣11人の氏名と知行高が書き留められている。「大音与兵衛殿御直に被申上候」と添え書きがあり、大音(福岡藩分限帳に700石とある)が他藩に話したことらしい。

 この「御家来」には矢野安太夫・月瀬十郎兵衛・立花五郎左衛門・藤井勘右衛門・根本金太夫の5人が含まれていた。11人中の約半数が、隠居所付の家臣なのである。元禄元年(1688)に綱政へ家督を譲っている黒田光之が、依然として藩政に影響力を持っていたと言えそうだが、「ご隠居」の家臣が藩の内外に存在感を顕示していたというのも興味深い。

 『福岡県史』を読むと、宝永4年(1707)の黒田光之死去後、権力を確立したい綱政が光之側近の粛清を行ったとされ、「立花五郎左衛門(実山)のほか、藤井勘右衛門・根本金太夫などが隠居を命ぜられ」(福岡藩 通史編)とあるが、『黒田家文書』(福岡市博物館編)には、体調の優れない立花、還暦を過ぎた藤井・根本を気遣って、自身の死後は隠居させるよう綱政に指示した光之の遺書があって、「押隠居」のようなネガティブなものではないようにも思える。

 もっとも、翌年には立花実山は幽囚の身となり(後に撲殺)、藤井勘右衛門の跡を継いでいた長男の藤井勘兵衛は減知処分(『近世福岡博多史料』所収の「長野日記」)。その一方で矢野・根本の両人は従前通り、罷免されていた月瀬にいたっては、綱政によって子が加増の恩典を受けている。隠居所付の5人の家臣、自身の隠居後はそれぞれ明暗が分かれたようだ。