筑前黒田武士の江戸日記

~隔月で第1土曜日に更新~

vol.94 団琢磨

 

 ふと思い立って、東京日本橋三井本館へ。このあたりは仕事で度々来た時期があり、よく知っているつもりだったが、当時は団琢磨の殉難地であることに気付かずにいた。三越の裏口を出ると、正面にいくつも並ぶ堂々たる円柱が目を引く古めかしい建物。福岡藩出身で三井財閥の総帥にまで昇りつめた彼の御仁は、まさにこの場所で凶弾に倒れた。昭和7年(1932)の血盟団事件である。今さらながら、ここだったのかと、しばし現場に見入った。

 同郷の藤井甚太郎も編纂委員に加わった『男爵團琢磨伝』という団の伝記本があるが、ここには彼が養子に入った団家の解説もあって興味深い。先祖の団将監について、藩政期に書かれた「黒田家臣伝」では、「子孫に問しに将監は元伊勢の国の者にして長政の御代黒田家に来て仕へしとのみ答えて将監が父名さえ知れず」と素性不詳のような扱いとしているが、伝記での説明は実に詳細だ。将監は元の名を寺内与市。父信家は筑前宗像氏に仕えるも主家滅亡で浪人。与市は福島正則に仕えた後に再び浪々の身となったが、伊勢在住の折りに黒田長政に700石で召し出され、母方の姓に改めて団将監を名乗ったという。

 将監は1万石の重臣である小河内蔵允の次男を養子とし、団家は福岡藩士として続き、団琢磨の養父団尚静(頼母、平一郎)に至るが、伝記には尚静についても書かれている。彼の父は家老の立花家からの養子。立花増熊の甥にあたる尚静は藩の要路にあって、明治3年(1870)に東京赴任の際、当時14歳の養子琢磨を連れて行ったそうだ。「霞ヶ関の藩邸に團(琢磨)の親夫婦が女中や家来を連れて團が若様で来た」、「本当に大参事の若様なんてこんな贅沢なことをしていると思った」と旧友の金子堅太郎(妹は団夫人)の述懐も添えられているが、「一家を挙げてひたすらその機嫌の損せざらんことに努めたり」とあるくらい、養子の団は家族に可愛がられたらしい。

 こんなエピソードもあった。団少年が友人と虎ノ門まで出歩いていた時、焼き立ての芋の香りに食欲が抑えられず、編笠に詰めて抱えるほど買って藩邸に戻ったところ、門前で馬上の養父尚静に出くわしてしまい進退窮まった由。後年の団いわく「馬の上から見て妙な顔付をして居った」。たわいもない話だが、なにか微笑ましさも感じる。後に尚静には実子ができ、団の立場は微妙なものになったが、尚静に義理立てして自らは団姓のまま分家として養家を支えたという。実業家として名を馳せた団であるが、黒田武士目線では、彼の家系や家族との思い出話もまた、なかなか興味を引くものである。

 

 

団琢磨の暗殺現場。車から降り、この階段を昇りかけたところを襲われたという。

 

 

「三井本館」のプレートも、いかにも古そうだが、団がいた頃からのものだろうか。左手には日銀本店。こちらの建物も古く、三井本館同様に国の重要文化財

 

福岡の団家屋敷跡。現在は何も残っておらず、マンションの壁に説明板があるだけだが、『男爵團琢磨伝』には往時の屋敷外郭の長屋と土塀の写真が掲載されている。

 

団家は大組600石で、養父の尚静は無足頭、勘定奉行、納戸頭などを歴任。五卿をめぐる出来事を過去のブログで紹介しているので、ご参照いただきたい(vol.17)。