筑前黒田武士の江戸日記

~隔月で第1土曜日に更新~

vol.17 五卿

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【五卿上陸地】福岡県北九州市八幡西区舟町7-10
  http://www.city.kitakyushu.lg.jp/yahatanishi/file_0029.html

【延寿王院】福岡県太宰府市宰府4丁目  

  http://www.crossroadfukuoka.jp/osusume/2010spring/index2.html

 

 「五卿」をテーマに福岡を旅してみた。京を追われ長州に落ち延びた三条実美ら攘夷派の公家たち。長州征伐で逃げ場を失った彼らを領内に受け入れたのが福岡藩である。五卿一行を迎えた黒崎、途中の休憩地である木屋瀬宿、そして滞在先となった太宰府を巡り、彼らも湯治に訪れた二日市温泉で一泊して、翌日には九州歴史資料館の「五卿と志士」という企画展も見学した。五卿やその随従者の日記や回顧談は多く残っているが、福岡藩にとってどのような出来事だったのか、興味がわく。

 『新修福岡市史』(資料編/近現代1)に、こんな史料を見つけた。無足頭の団頼母(団琢磨の養父)は、藩内の勤王派が勢力を増すなか、職務への影響を考え、同役の藤井九左衛門(歴史学者藤井甚太郎の父)らと「内密噺合」の末、ともに勤王派に同調。五卿は団に厚い信頼を寄せて、あるとき勤王派による藩のクーデター計画を漏らしてしまう。驚いた団は藤井らと藩主黒田斉溥に報告し、斉溥は大いに激怒したのだという(「維新雑誌」巻二附録)。斉溥による勤王派の大粛清(いわゆる乙丑の獄)が行われたのは、この後のことである。 

 佐幕派とされる藩主斉溥を犬鳴御別館に追放しようとした勤王派の計画は、「兼而荒増御聞込有之居候」と史料にもあって、既に斉溥の耳には入っていたようだが、反幕府勢力の旗頭たる五卿も認識していたという事実が、斉溥により一層の緊迫感を与えはしなかっただろうか。勝者に転じた人たちのサクセスストーリーとは別の視点から太宰府の五卿を考えてみると、「藩論全く佐幕主義と変じたれば」(五卿の一人東久世通禧による『竹亭回顧録』)とされる福岡藩の言い分も見えてくるかもしれない。 

(2014年1月訪問)

 

f:id:kan-emon1575:20140130180412j:plain黒崎の五卿上陸地。やってきた一行は、五卿のほか中岡慎太郎土方楠左衛門ら随従者も含め70名にも及んだ。海辺は工場などになっていて、当時の状況はイメージしにくい。

 

f:id:kan-emon1575:20140131173319j:plain太宰府天満宮別当大鳥居家(明治以降は西高辻姓)の邸宅である延寿王院天保5年(1834)の建造とされる立派な門構えのほか、五卿が滞在したという部屋(非公開)も残る。坂本龍馬など各地の志士の往来も頻繁にあったようだ。