筑前黒田武士の江戸日記

~奇数月の第1土曜日に更新~

vol.47 飯尾甚太夫

 前回の豊州紀行の折り、富来城跡近くの「富来茶屋」というお店で昼食をとった。古民家の風情あるお座敷でいただいた定食は、お手頃な価格ながら多彩な盛り付けで、なかなか美味しい。テーブルには郷土史を紹介する手書きの資料が置いてあったが、その中に、ある福岡藩士の記述を見つけた。飯尾甚太夫安延。富来城主垣見和泉守一直(家純)の甥にあたり、城代として黒田如水と対峙した垣見利右衛門直延(一直の兄)の子である。

 資料では、真田十勇士の一人である筧十蔵との関係について触れられていた。垣見氏は筧を姓とする史料もある。十蔵は鉄砲の名手、甚太夫は福岡藩の鉄砲頭で、鉄砲でもつながる。大河ドラマのタイミングに合わせてか、両者を兄弟とする推論で興味深い(真相は不明だが)。飯尾甚太夫については、「黒田家臣伝」等にも武勇が語られている。関ヶ原では宇喜田秀家の重臣として黒田勢と戦い、後に乞われ黒田家に仕えて知行1,500石。島原の乱での負傷で死去するが、「黒田家譜」の記述を見ても、黒田家中で存在感はあったように思える。

 資料に見入っていると、お店の方がいろいろ説明してくれた。国東半島のお店で、福岡藩士の資料に出会うというのも不思議な感じがしたが、甚太夫について、福岡での認知度はどんなものだろう。『福岡県史』にある黒田忠之代の処分者リストに、甚太夫の子が挙げられていた(「忠之の勘気にふれ知行召放」の由以降、「黒田家譜」にも「飯尾」の名は出てこないので、福岡藩との直接的な関係は失われたのであろうか。

 甚太夫の父垣見利右衛門(理右衛門)は、「黒田家譜」等によると、石田方として出陣した弟の死を知って如水に城を開け渡し、後に筑前に移って現在の福岡県古賀市で過ごしたという。『黒田三藩分限帳』には、「代官衆」として「百石 飯尾利右衛門入道直延 号理入」とあり、飯尾姓に改めている。古賀市のホームページには、文化財として「飯尾理入の墓」が紹介されており、地元では知られた存在なのだろうか。なかなか興味を引くこの父子。もう少しいろいろ調べてみたいところだ。

 【古賀市ホームページ】https://www.city.koga.fukuoka.jp/guide/culture/004.php?mode=smart