筑前黒田武士の江戸日記

~奇数月の第1土曜日に更新~

vol.06 中老の矢野家

 私の先祖には、「矢野市太夫徳雄長男」と系図に書かれた養子の当主がいる。『新訂黒田家譜』の附録にある「福岡藩家老年表」には、中老矢野家の歴代当主のなかで、寛保2年(1742)に矢野幸増の跡を継ぐかたちで矢野徳雄の名があるが、実際に同時期の「黒田家譜」に「矢野市太夫中老」の記述が見られる。 

 3,200石もの大身で、家老を輩出するような名家の子弟が、しかも本来家督を継ぐべき長男が、なぜ我が家のような数百石レベルの家の養子になったのか、かねがね不思議だったが、あるとき、重臣のデータを網羅した「福岡武鑑」(九州大学附属図書館所蔵)なる史料を見つけ、矢野家の家系図を確認したところ、なんと市太夫徳雄の名がない。矢野六太夫幸増ー矢野安太夫幸通と、徳雄が抜けているのだ。

 よく見れば、矢野家の当主は一代ごとに「六太夫」と「安太夫」を交互に名乗っていて、諱も「幸」が通字。「市太夫徳雄」の名は、何かよそ者のような感じすらある。思い立って分限帳をあたってみると、元禄と文化年間に「矢野市太夫」の名を見つけたが、250石の馬廻組。これはどういうことか。

 こんな仮定は成り立つだろうか。市太夫の家は分家で、本家で幼少の跡取りが成長するまで、中継ぎとして仮の当主を引き受けた。実家は兄弟が継いだので、自分の長男は養子に出した(?)。元は250石であるなら、年収は10倍以上。将軍襲封の際には藩主に代わり江戸城大広間で祝いの品を献上する大役を果たすなど(「黒田家譜」)、中士クラスから藩を代表する重役の立場に一躍大栄転。人物としても興味を持たずにはいられない。何か情報をお持ちの方がいれば、是非ご教示いただきたい。