筑前黒田武士の江戸日記

~隔月で第1土曜日に更新~

vol.06 中老の矢野家

 我が家の先祖には「矢野市太夫徳雄長男」と系図に書かれた養子の当主がいる。『新訂黒田家譜』の附録にある「福岡藩家老年表」には、中老矢野家の歴代当主の中で、元文2年(1737)に矢野幸増の跡を継ぐかたちで矢野徳雄の名があり、同時期の「黒田家譜」にも「矢野市太夫中老」の記述が見られる。 

 3,200石もの大身で、家老を輩出するような名家の子弟が、しかも本来家督を継ぐべき長男が、なぜ我が家の養子になったのか。かねがね不思議に思っていたのだが、ある時、重臣のデータを網羅した「福岡武鑑」(九州大学附属図書館所蔵)なる史料を見つけて、矢野家の家系図を確認したところ、市太夫徳雄の名がない。六太夫幸増ー安太夫幸通と、徳雄が抜けているのだ。

 よく見れば、矢野家当主は一代ごとに「六太夫」と「安太夫」を交互に名乗っていて、諱も「幸」を通字にしている(『筑藩元老 従五位矢野梅庵翁来歴』によれば「幸」は「とみ」と読むらしい)。「市太夫徳雄」の名は慣習に合わず、何かよそ者のような感じすらある。思い立って分限帳をあたってみると、市太夫徳雄の相続よりも前の時期の元禄期と後の時期の文化期に「矢野市太夫」を名乗る家を見つけたのだが、いずれも馬廻組。これはどういうことか。

 こんな仮定は成り立つだろうか。市太夫徳雄は別系の同族。中老矢野家で幼少の跡取りが成長するまで、中継ぎとして一時的に当主を引き受けた。実家は兄弟が継いだために、自分の長男は我が家へ養子に出した(?)。元禄期の市太夫家の家禄250石と比べれば、年収は10倍以上。将軍襲封の際には藩主名代として江戸城大広間で祝いの品を献上する大役を果たすなど(「黒田家譜」)、中士層から藩を代表する重役の立場に一躍大栄転。人物としても興味を持たずにはいられない。何か情報をお持ちの方がいれば是非ご教示いただきたい。