筑前黒田武士の江戸日記

~隔月で第1土曜日に更新~

vol.45 飯田丸

 熊本地震から3ヵ月。被災した熊本城の飯田丸五階櫓で、先日ようやく補強工事が開始された。崩れず残った1本の石垣に支えられるその姿は、いささか痛ましい。大天守・小天守の周りで、宇土櫓とともに天守規模の櫓がそびえる様は、熊本城ならではの見応えある景観であり、早期の復興を願いたい。

 飯田丸の名は、加藤清正重臣かつ盟友とも言える飯田覚兵衛直景にちなんだもので、直景の管理下にあった郭である。司馬遼太郎の短編小説「覚兵衛物語」にも描かれる豪傑は、熊本城の築城にも貢献しているが、わが福岡藩の大組筆頭(2,500石)であった飯田家こそ、その後裔。加藤家改易後、直景の養子である飯田孫左衛門高伯(後に角兵衛)が黒田家に仕えることとなったが、政治向きには関わらない代わりに、戦時には大将を任されることを望んだそうだ。

 旧福岡藩士高橋達による「老の回想録」(『近世福岡博多史料』所収)では、「泰平三百年間全く無職にて遊び暮したる戦時大将専門の世襲家」などと紹介されているが、「黒田家譜」を見てみると、大組頭、小姓頭、使番等の役職に就いている記述もある。長崎警備では鉄砲大頭として度々出張しているし、部屋住の嫡男が児小姓として出仕していたことも史料で確認できる。大身でありながら家老等の重役を務めることがなかったとはいえ、「遊び暮らしたる」は、ふさわしくなかろう。武家社会の終焉ともいうべき時期の戊辰戦争では、晴れて戦時大将も務め、中老に昇格している。

 私の家系も飯田家とはご縁があったようで、家伝の古文書には飯田家関係の記録も残る。わが家が家禄を没収されていた一時期には、飯田家の屋敷でお世話になっていたらしいので、当時もあったと思われる飯田邸跡の大銀杏(福岡市中央区)には、何か親しみを感じる。樹勢の衰えが顕著になってしまっているようだが、こちらの方も復活を期したいところである。

 

f:id:kan-emon1575:20130831114432j:plainJT福岡支店に残される飯田邸跡の大銀杏。熊本城から持ってきた苗木が育ったとのことで、樹齢は約400年という計算に。福岡市の保存樹に指定されている。

 

f:id:kan-emon1575:20130831114351j:plain広大な飯田邸の屋敷図は、福岡市博物館で映像展示されている。武門の家とあってか、図面には鉄砲之間、弓之間、稽古所なども見られる。

(2013年8月撮影)