筑前黒田武士の江戸日記

~隔月で第1土曜日に更新~

vol.86 因州鳥取

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 緊急事態宣言が解除された昨年の秋、山陰を旅行して初めて鳥取を訪れた。鳥取藩因州池田家32万石の城下町。過去のブログ(vol.70 備前岡山)でも触れた岡山藩備前池田家は池田輝政の長男筋で(武鑑にも「嫡流」とある)、因州池田は言わば分家筋となるが、家祖池田忠継徳川家康の孫であることから(池田輝政と後妻である家康次女督姫との間に誕生)、葵の紋を許される親藩並みの待遇を受けていたのだそうだ。ちなみに池田忠継は岡山藩主。長男筋が姫路から鳥取に転封後、さらに忠継系の岡山と領国を交換しているから、ややこしい。

 ブログネタになりそうな黒田武士とのご縁は思い浮かばずにいたが、鳥取市歴史博物館で戦国の展示に黒田孝高の名が目に入ってきて、意表を突かれた。かの有名な備中高松城攻めの前年である天正9年(1581)、羽柴秀吉は毛利家の家臣吉川経家が籠る鳥取城を落としているが、この戦いに官兵衛も加わっていたらしい。徹底した兵糧攻め軍師官兵衛の献策とも言われるが、これは「渇(かつえ)殺し」と語り継がれる凄惨なものだったようだ。この戦いについては鳥取県の「県史だより」の記事が興味深い(「秀吉の鳥取城攻めと黒田官兵衛」)。

 さらに幕末の展示を見ていて、河田景与(左久馬)が福岡藩の大参事になっていたことを思い出した。明治4年(1871)、太政官札贋造事件黒田長知藩知事免官となり、新知事の有栖川宮熾仁親王とともに福岡に乗り込んできた人物。鳥取藩出身で藩要人殺害事件(本圀寺事件)を起こした元攘夷志士でもある。「維新見聞記」には「御入庁後、於旧小書院、諸宦員ノ面々江、宮様御目見被仰付、河田大参事ヨリ委曲演舌有之候ヨシ」。藩外からの武闘派幹部の着任。黒田武士たちの心境はどんなものだったのか。もっとも、着任直後の廃藩置県から3ヶ月で河田は福岡を去り、鳥取県知事に栄転している。

 博物館見学後は鳥取城址を散策(上部写真は大手門前の堀)。大手門(中ノ御門表門)が復元されていたが、今後30年かけて櫓の復元など本格的な整備を進めていくらしい。福岡城の復元計画も進展を期待したいところ。鳥取には後藤又兵衛の墓(景福寺)があることも、初めて知った。いろいろな気付きを与えてくれる旅は、やっぱりいいなと思う。タイミングの判断が難しいコロナ時代ではあるが、また状況を見て出掛けてみたい。

 

 

f:id:kan-emon1575:20211117162656j:plain復元された鳥取城大手門。その先は整備工事の真っ最中。奥の洋館は池田侯爵家の別邸である仁風閣

 

f:id:kan-emon1575:20211117154502j:plain鳥取市歴史博物館に展示されていた鳥取城包囲戦のジオラマ。手前中央に黒田孝高本陣。

 

f:id:kan-emon1575:20211117145630j:plain城下に残る箕浦長屋門。2千石の重臣とあって迫力ある規模。福岡藩でも中老クラスであれば、こんな門構えだったかもしれない。