筑前黒田武士の江戸日記

~隔月で第1土曜日に更新~

vol.88 無足頭

 

 無足とは何ぞや。ふと思って調べてみると、「武士でありながら、領地を与えられていないこと、知行地を持たないこと」を意味するらしい。なるほど、それで知行取ではない福岡藩の無足組はそういうネーミングなのかと、今さらではあるが妙に腑に落ちた。歴史愛好家を気取ったところで、まだまだ自分の知識にもムラがあるなと思った次第だ。

 我が家の系図に興味を持ち始めた少年時代、気になったのが無足頭だった。先祖の何人かが無足頭であったようで、添付の写真はそのうちの1人の記録。22歳の年に「無足頭被 仰付」とある。「足り無い」と書くインパクトある字面、どうもあまり良いイメージがわかなかった。分限帳を見るようになって無足組の存在を知ったのだが、いずれも数十石数人扶持という俸禄。下級藩士の頭分、無足頭にはそんな印象を持っていた。

 しかし、この「切扶持」は「蔵米」とも言われるように、藩の蔵からの実際の支給額。対して無足組の上位にある馬廻組以上の「知行高」は、領地の収穫高であり四公六民だと手取り4割。同じ1石でも実収は同じではない。文化期の分限帳に「御切扶知行高直シ」という項があって、切扶持の知行高換算が細かく例示されているが、それによれば実際に無足組で複数の該当者がいる切扶持30石6人扶持の場合は、知行高の109石に相当する。知行高100石の馬廻組より年収は上なのだ。しかも、無足組の御礼式は「直礼」。殿様に直接拝謁ができる御目見以上の歴とした士分でもある。そんな知識を得るようになって、無足組の階層のニュアンスは、一部の書籍にも見るような「下級藩士」(「軽輩」とするものもあった)には当たらないのではないか、という気もしてきた。

 旧福岡藩士高橋達も、無足組については「各役所の中級の職に任ぜらるる者」と説明(「老の回想録」)。となると、その管理職たる無足頭も、サラリーマン的な発想では、あながち悪くないのかなとも思うのだが、「領地のない武士」を表す言葉がそのまま組の呼称とは不名誉な感じもする(下位の「城代組」のほうが聞こえは良いような)。やはり知行取とのステータスの差は大きいのだろうか。実際のところ、当時の黒田武士はどんな捉え方をしていたのか。他藩にはあまり例を見ないという無足組。その独自の組織については、感覚的なレベルでも実情を知ってみたいところだ。