筑前黒田武士の江戸日記

~隔月で第1土曜日に更新~

vol.89 会津藩老 萱野権兵衛

 

 十数年ぶりに会津若松へ行ってきた。コロナ第7波の急拡大はやはり気になったので、目的を絞って日帰りで短時間。観光スポットである会津武家屋敷西郷頼母の屋敷などの見学に留めたが、帰り際には鶴ヶ城の雄姿も拝むことができた。少年時代に見た日テレの年末時代劇「白虎隊」会津と言えば自分の中では今でもあの名作のイメージが強いが、大学の仲間と旅行で訪れたり、仕事の仲間とスキー場からの帰りに寄ったり、いろいろと思い出深い町でもある。

 ところで、会津藩には萱野権兵衛という家老がいて、戊辰の降伏開城後、責任を取って自刃、その息子の郡長正も留学先の他藩で恥辱を受けて自刃している。今に語り継がれる悲話であるが、初めて知った時には長正少年の郡という珍しい姓に、福岡藩の郡家を連想した。ある時、『吉田家伝録』を読み進めていたら、福岡藩家老郡家の初祖正太夫慶成について、萱野弥三右衛門という豊臣秀吉の旗本の次男とする記述を見つけたのだが、何と正太夫の長兄の名が萱野権兵衛(上巻529頁)。これは何か関係がありそうだと思った。

 今回の旅で萱野家の屋敷跡を見かけて思い出し、東京に戻って調べてみることにした。今年公開されたという「会津若松市デジタルアーカイブ」なるサイトを発見。このサイトで「会津藩諸士系譜」という史料が閲覧できる。さっそく「萱野権兵衛」をキーワードに検索してみたら、やはり。萱野家の初祖権兵衛長則は、萱野弥三右衛門長政嫡男とある。つまり、福岡藩家老の郡家はその弟筋ということになるのだ。弥三右衛門の次男として生まれた正太夫は、福岡藩の「御家人先祖由来記」(『福岡市史』資料編所収)によれば、豊臣家の武将である郡宗保の孫(父弥三右衛門は宗保の娘婿)。後に宗保の養子になったというが、宗保は大阪の陣で自刃している。

 16歳の若さで自ら命を絶った郡長正。賊軍となった立場で世相を憚り、先祖ゆかりの郡姓に改めたのだろうか。彼の墓は福岡県みやこ町にあり、今年4月には「郡長正公記念交流行事」が開催され、会津若松市長や旧会津藩松平家現当主などが招かれ、両自治体の交流を深めたのだそうだ。長正が留学した小倉藩(留学当時は豊津藩)の藩校育徳館を起源とする福岡県立育徳館高校からも、校長や生徒会代表が参加したとのことだが、長正ゆかりの同校には会津産の石を配した郡長正記念庭園なるものもあるらしい。福岡と会津の意外な接点。今回も旅をきっかけに、様々な発見があり満足だ。

 

 

鶴ヶ城そばの萱野邸跡には萱野父子を紹介する説明板。先祖弥三右衛門の出身は摂津で、在所の地名萱野を姓にした由(『吉田家伝録』)。とすると、忠臣蔵萱野三平(摂津の萱野村出身)も関係がありそうだ。三平もやはり自刃。何か因縁めいたものを感じる。

 

会津武家屋敷に復元されている西郷頼母の屋敷。1,700石の家老ともあって風格がある。これだけの規模の武家屋敷ともなると殆ど現存事例もなく、一見の価値あり。福岡藩でも千石以上だと、こんなお屋敷だっただろうか。

 

西郷邸の表玄関。当時は萱野邸のお隣。10年近く前の大河ドラマ「八重の桜」では西田敏行さんが西郷頼母役だったが、更に昔の年末時代劇「白虎隊」で西田さんが演じたのは萱野権兵衛。腹に白刃を突き立てながら、「見てやるぞ。薩長の連中がどんな国を作るのか。」と苦悶の表情で呟く西田さんの名シーンは、痛々しくも権兵衛の無念さが伝わり、今もよく覚えている。