筑前黒田武士の江戸日記

~隔月で第1土曜日に更新~

vol.92 第二の黒田騒動

 前回話題にした福岡市博物館の史料群の中には、他にも興味を引くものがあった。藤井勘兵衛徳毅(後に勘右衛門)が自身の事を書き残した「私行記」(藤井家資料No.87)。黒田光之の側近だった藤井勘右衛門高任の嫡男で、光之逝去後に隠居した父の跡を継いだ人物だが、相続翌年の宝永5年(1708)に1,500石から600石に減知、大組から馬廻組に格下げという厳しい処分を受けており(後に大組に復帰)、「私行記」にはその時の様子が記録されていた。

 「黒田次郎太夫殿宅にて、執権尾上角右衛門、大目附明石四郎兵衛、小目付山田茂兵衛出座、我が組頭明石善左衛門、御馬廻頭久世半左衛門出逢候。次郎太夫殿被仰ハ、其方儀思召有之付、拝知千五百石之内九百石被召上六百石被下、御馬廻組に被仰付由被仰渡」。さながら監査役と新旧上司同席のもと、重役室で減給降格を言い渡されるような、現代のサラリーマンの感覚でも実に重苦しい光景が目に浮かぶ(ちなみに『福岡藩分限帳集成』にある勘兵衛の知行高「九百石」は誤植と思われる)。

 「私行記」には勘兵衛自身の思いのたけも綴られているのだが、しかし、処分の理由を知り得るものではない。「長野日記」(『近世福岡博多史料』所収)でも「千五百石の内九百石被召上 藤井勘兵衛」とあるだけだ。『福岡県史』などでは、黒田綱政が父光之の側近を排除する動きがあったとしているが、以前のブログ(vol.10)でも書いたように、すべての光之側近が憂き目にあったわけではなく、また勘兵衛の父勘右衛門は光之逝去後に「綱政公より中老格に被仰付」(藤井家系図)という栄誉を授かっている。

 ではなぜ藤井勘兵衛は処分されたのか。「長野日記」にある勘兵衛処分の記述の数行隣には「泰雲様御卒去」。泰雲は綱政の実兄であり、父光之により廃嫡とされた黒田綱之。かの立花実山が幽閉・殺害されたのも、同じ宝永5年(1708)のことだが、実山は綱之廃嫡に異議を唱えた過去がある。光之の死で藩内に綱之の捲土重来を期待するような動きがあった、ということは考えられるだろうか。綱政による粛清の矛先は、光之派ではなく実は綱之派なのではなかろうか。「第二の黒田騒動」とも言われる綱之の廃嫡騒動だが、藤井勘兵衛や立花実山の処分もその延長線上にあるのだろうか。葉室麟さんの『橘花抄』にも影響され、いろいろな想像が膨らむ今日この頃である。

 

福岡城の下之橋御門。藤井勘右衛門・勘兵衛父子の屋敷は、門のすぐ奥にあったらしいが(『新修福岡市史特別編 福岡城』)、後には城外(通町)に移っている。この屋敷替えも政治的失脚を意味するものなのだろうか。