筑前黒田武士の江戸日記

~隔月で第1土曜日に更新~

vol.91 矢野市太夫

 矢野市太夫徳雄について書いたことがあった(vol.06)。元文2年(1737)、福岡藩中老3,200石の矢野家を継いだ人物である。その長男が我が家の養子になっているのだが、なぜ長男が矢野家の跡取りとならずに養子に出されたのか、そもそも矢野家の歴代当主が通称に「六太夫」と「安太夫」を交互に使い、諱には「幸」(「とみ」と読むらしい)を通字とする慣例がありながら、なぜ「市太夫徳雄」を名乗ったのか。疑問を呈して推論を述べてみたところ、読者の方から情報をいただけたが、判然とするには至らなかった。

 昨年、思いもかけず、この謎が解けた。福岡市博物館で古文書の閲覧をさせていただいたのだが、その中に矢野市太夫の出自についての記述を見つけた(藤井家資料No.84)。以下、その抜粋である。「市太夫は矢野六太夫弟。六太夫早世に付き兄の家督相続いたせり。市太夫初めは本家矢野の家に養子に出、伯父の家督を継ぐ。足軽頭を勤め居りし処、兄六太夫早世にて実子幼年に付き、六太夫病中、相続に市太夫(一字虫食い)願、遺跡拝領仰せ付けられる。市太夫相続は六太夫実子当安太夫幸通に願の通り仰せ付けられる」。

 矢野市太夫は中老矢野六太夫幸増の弟で、本家の矢野家(中老矢野家は分家筋だった)を継いでいたが、六太夫が若くして亡くなり、実子(後の安太夫幸通)も幼かったため、福岡城内の実家に呼び戻されて中老矢野家の当主となったようだ。惣領が成長するまでの期間限定であり、歴代の名乗りを踏襲しなかったのも、中継ぎという立場であったからではなかろうか。当然、跡を継ぐのは兄の実子であるから、自身の長男は我が家に養子として迎えられたのだろう。ささやかなな発見ではあるが、身内としては感慨深い。

 ちなみに我が家を継いだ市太夫長男は、後に大目付や裏判役を務めているが、「筑紫秘談」なる史料(『福岡県郷土叢書』所収)で「当代(黒田治之の治世下)の才臣、知士」として挙げられている数名の中に、その名があって嬉しくなった。身近な歴史を少しずつ紐解いていくことの面白さ。このブログも2012年12月に始めてちょうど10年経ったが、今年も自己満足の歴史探偵を楽しんでいこうと思う。

 

我が家の系図(簡略版)。右端に市太夫長男について書かれている。前妻(養女)は長浜四郎右衛門の娘(vol.76)、後妻は天野与左衛門の娘(vol.32, vol.51)、長女は黒田如水実弟黒田利高の後裔である黒田八右衛門の嫁(vol.18, vol.30vol.65)。いずれも過去のブログで触れた家筋なので、参考情報として括弧書きのナンバーにリンクを付しておく。